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鳥羽で「駆逐艦 春雨」供養祭-遭難から100年、海上安全と平和への祈り込め

鳥羽で「駆逐艦 春雨」供養祭-遭難から100年、海上安全と平和への祈り込め

鳥羽で「駆逐艦 春雨」供養祭-遭難から100年、海上安全と平和への祈り込め

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 1911(明治44)年11月24日、旧海軍の駆逐艦 春雨(はるさめ)が的矢湾口の菅崎(すげざき)沖で嵐に見舞われ座礁し遭難、隊員44人が亡くなった。ちょうど100周年を迎えた11月24日、その供養祭が春雨公園(鳥羽市相差町)に立つ「大日本駆逐艦 春雨殉難記念碑」の前で行われた。

「大日本駆逐艦 春雨殉難記念碑」の前で100周年の供養祭

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 春雨は1903(明治36)年、国産第1号の軍艦として完成。木造船ながら総排水量375トン、出力6000馬力、最大出力29ノット、全長69.2メートル、全幅6.6メートル、魚雷発射管2基を搭載するなど、当時では第一線級の駆逐艦として活躍、日露戦争などに従軍した。

 当時、横須賀から佐世保に向かう途上、志摩沖で嵐に遭遇。11月23日の夕方、避難のため的矢湾に入港しようとした際、真夜中でしかも強風と高潮により座礁。翌24日の早朝、長岡村相差(現・鳥羽市相差町)と安乗村(現・志摩市阿児町安乗)の村民が嵐の中、総出で救出に当たった。しかしながら乗組員64人中、大滝道助駆逐隊司令・海軍中佐、児玉兼三郎春雨艦長を含む44人が犠牲となった。

 慰霊碑は同地と、対岸の安乗岬園地の2カ所にあり、相差町では、その日を教訓に海上安全と平和への祈りのための供養祭を毎年行ってきた。この日は、相差町内会と鳥羽防衛協会との共催で、海上自衛隊護衛艦隊 司令官・松下泰士海将や第4代「はるさめ」佐藤誠艦長らが出席。海上には護衛艦はるさめも錨泊し、供養祭を見守った。

 同町内会の中村幸照会長は「当時嵐の中、自らの命をも顧みず救助活動に徹したわれわれ先祖の勇気と行動力を誇りに思い、その志を後世に受け継いでいきたい。任務半ばで殉職した44の御霊(みたま)に哀悼の意を表する」と式辞を述べた。松下海将は「ここに眠る44柱の英霊に謹んで哀悼の意を表する。満身創痍(そうい)になりながらも懸命に救助活動を行った村民の方々に心から敬意を表する」と思いを伝えた。その後、慰霊碑に献花がささげられ、同艦乗組員による弔銃発射も厳粛に行われた。

 第3代「はるさめ」にも乗船し、現在、第4代「はるさめ」に乗る荒木元海曹長は「このはるさめは、3月11日の東日本大震災が発生したすぐの15時30分には横須賀港を緊急出港し、翌日早朝から陸前高田沖20マイルの海上で、津波で沖まで流されたガレキの中から生存者の捜索活動を行った。残念ながら生存者は見つからなかった。私は、自衛隊に入隊し30年、3代・4代のはるさめに乗り任務に就き、今この慰霊塔の前に立っている。何かご縁を感じる」と打ち明ける。

 午後からは、村人総出で「駆逐艦春雨遭難救助隊」を結成し救助活動に当たった青年たちの物語を演劇にした「春雨救助伝~闇の怒濤から~」の上演会などが、鳥羽市立長岡中学校体育館で行われた。

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