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「ぼくもいくさに征くのだけれど」-伊勢出身の戦没詩人「竹内浩三」脚光浴びる

「ぼくもいくさに征くのだけれど」、伊勢出身の戦没詩人「竹内浩三」脚光浴びる。竹内浩三の生誕90年を記念した「うたと朗読のつどい」

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「ぼくもいくさに征くのだけれど」

竹内浩三の生誕90年を記念した「うたと朗読のつどい」

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 街はいくさがたりであふれ
 どこへいっても征くはなし かったはなし

 三カ月もたてばぼくも征くのだけれど
 だけど こうしてぼんやりしている

 ぼくがいくさに征ったなら
 一体ぼくはなにするだろう てがらたてるかな

 だれもかれもおとこならみんな征く
 ぼくも征くのだけれど 征くのだけれど

 なんにもできず
 蝶をとったり 子供とあそんだり
 うっかりしていて戦死するかしら

 そんなまぬけなぼくなので
 どうか人なみにいくさができますよう
 成田山に願かけた 

 この詩は、伊勢市(旧宇治山田市)出身の詩人・竹内浩三が三重県久居町の中部第38部隊に入営(1942年10月)前に書いたものとされる。

 竹内浩三は、1921(大正10)年伊勢市吹上町生まれ、日本の映画監督小津安二郎も通った三重県立宇治山田中学校(現・三重県立宇治山田高等学校)出身。自身も映画監督を目指すべく小津と同じ日本大学専門部映画科に入学する。1942(昭和17)年10月に入営し、1943(昭和18)年茨城県西筑波飛行場滑空部隊に転属。1945(昭和20)年4月9日23歳、太平洋戦争フィリピンバギオ島にて戦死。

 1942年6月、21歳の時に友人らと同人誌「伊勢文学」を創刊、入営中の1944(昭和19)年1月1日から7月27日までに書きつづった日記「筑波日記」は、宮沢賢治の本をくりぬきその中に隠し、検閲をくぐり抜け実姉の松島こうさんの元に送り届けられたという。死後、友人や実姉らによって生前に書いた詩や漫画などがまとめられ作品が世に出ることになる。その竹内浩三が今、脚光を浴びている。

 2004年7月稲泉連(いないずみれん)さんの著書「ぼくもいくさに征くのだけれど―竹内浩三の詩と死」(中央公論新社)が第36回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。稲泉さんは、「『ぼくもいくさに征くのだけれど』と『けれど』と後に言葉を続けることなく止める感覚や『人なみにいくさができますよう』と揺らぐ感覚に心を打たれた」と話す。

 伊勢では、竹内浩三の生誕90年を記念した「うたと朗読のつどい」が今年6月、伊勢市の赤門寺正寿院(岩渕)で作家で画家のよしだみどりさんによる朗読と中国出身の歌手李広宏(りこうこう)さんによるミニコンサートなどがあり、大勢のファンが詰め掛け満席になり会場の外から鑑賞する人が出るほどの人気だった。主催は浩三の残した詩を多くの人に知ってもらおうと活動する「竹内浩三を読む会」。

 タウン誌「伊勢志摩」や文化誌「伊勢人」などの発行を手がけ、伊勢志摩の文化を掘り起こし数多くのまちづくりの実績を残す伊勢文化舎(神田久志本町)代表の中村賢一さんは「竹内浩三の詩は、戦争と同時に語られ、反戦詩人と誤解されることが多いが、(結果として戦争がきっかけとなるが)生と死を見つめ20代の率直な思いを詩にしたためたにすぎない。その素直な思いに誰もが共感するのだと思う」と説明する。2007年8月発行の「伊勢人」では竹内浩三を特集、2万部がほぼ完売となる。「浩三の作品『宇治橋』では、『20年に一度掛け替えられる故郷の宇治橋の渡り初めをしたい、だから長生きをしたい--』と表現している。2009年のカレンダー『伊勢講ごよみ』で新しく掛け替えられた宇治橋を特集し、その表紙に浩三の作品『宇治橋』を載せたところ大反響だった」とも。

 8月15日、戦没者を追悼し平和を祈念する終戦記念日が66回目を迎えた。

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