「憲政の神様」「議会政治の父」と呼ばれた尾崎行雄(雅号=咢堂(がくどう))が亡くなって10月6日で70年がたった。
【その他の画像】「咢堂香風」の土井孝子会長と「尾崎咢堂記念館」奥本謙造館長
明治維新によって江戸から明治に変わる10年前、安政の大獄のあった1858年、神奈川県相模原市津久井町(旧相模国津久井県又野村)で生まれた尾崎行雄。1872(明治5)年からの約2年間の少年時代を伊勢市(旧度会県山田)で過ごしたことから1890(明治23)年、三重県選挙区から第1回総選挙に出馬。33歳で初当選し以後63年間、連続25回当選し、伊勢市を中心とした三重県民から支持され衆議院議員を務めた。1903(明治36)年~1912(明治45)年の期間には東京市長を務め、米ワシントン・ポトマック河畔にサクラの苗木約3000本を贈り、その後、アメリカから返礼のハナミズキが贈られ、日米交流の架け橋を作った。1954(昭和29)年10月6日、96歳で死去。
尾崎は議員時代に、日清戦争(1894~1895)、日露戦争(1904~1905)、第一次世界大戦(1914~1918)、日中戦争(1937~1945)、第二次世界大戦(1939~1945)の戦争を目の当たりにする。第一次世界大戦後の1919(大正8)年に欧州諸国を視察し、戦争の悲惨さを見て軍縮、反戦、世界平和を訴え「世界連邦」の建設を構想、議会制民主主義の重要性を説き、「民主政治」の実現を訴え続けた。
尾崎咢堂記念館(伊勢市川端町)の奥本謙造館長は「時代が戦争に突き進もうとしている時に尾崎が軍縮、反戦を訴え続けたのは、第一次世界大戦後の欧州視察が一番のきっかけ。全てが戦場になっていたことと、戦いそのものに対する反対もあるが、戦争に対しての認識の間違い、戦争の無意味さに気付いたこと。それと(尾崎の個人的な感情もあったかもしれないが)、第1回の選挙から政党政治で日本の民主主義を確立していこうと行動していた時に、国民を戦争体制へ駆り立てるため国民の生活や言論、思想などを統制した大政翼賛会(1940~1945)の動き(軍隊)によって、議会制民主主義がつぶされたことへの反発が原動力では」と説明する。
奥本館長は「尾崎は一貫してクリーンな政治家を貫き、自分のため自分の欲のためにと判断せず、ただただ世のため人のために行動した。選挙においても当選したいと思う行動はしなかったし、咢堂会(尾崎の支援団体)がさせなかった。尾崎が選挙期間中に選挙区で演説をしようとすると止めたほど。当時の三重県民は我田引水的な要求を一切せず、国のためにと25回も国会に送り続けた」と話す。
奥本館長は「尾崎を顕彰するNPO法人『咢堂香風(がくどうこうふう)』会長の土井孝子さん(84)は尾崎の理念と功績を広く後世に伝えようと活動し続け、今年でちょうど30年になる。当館への入館者数は2500人前後で、うち半分が近隣の小中学生。これまで選挙だからと言って政治家を目指す人の入館が増えるという相関はないが、松下政経塾の塾生や選挙後に尾崎の志に触れようと来館する人はいた。塾生の何人かはその後、政治家になり、報告してくれた。子どもの頃に僕の話を聞いてくれた人が先日、政治家を目指すために官庁に入ったことを報告に来てくれたのはうれしかった。第二次世界大戦中から訴えた『世界連邦』構想は実現していないが、尾崎は70年前に既に先を見ていたのでは」とも。
開館時間は9時~16時30分。月曜休館(祝日の場合は翌日休館)。入館料は、大人100円、小・中・高校生無料。