二見興玉神社のカエルのお守りと夏に黄色の花を咲かすハマボウと終戦70年

二見興玉神社のカエルのお守りと夏に黄色の花を咲かすハマボウと終戦70年(写真は南伊勢町に咲くハマボウの花)

二見興玉神社のカエルのお守りと夏に黄色の花を咲かすハマボウと終戦70年(写真は南伊勢町に咲くハマボウの花)

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 終戦70年を迎えた8月15日、夫婦岩で有名な二見興玉神社(伊勢市二見町)の参道沿いに咲くハマボウの花と同神社で受けることができるカエルのお守りに隠された物語とは?

【その他の画像】二見興玉神社の参道に生えるハマボウ

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 ハマボウは、学名ハイビスカス・ハマボウ(Hibiscus hamabo)アオイ科フヨウ属、漢字では黄槿、浜朴と書く。温暖な海岸付近に生え、高さ約2メートルほどの落葉低木。葉は卵円形、花はハイビスカスに似た形状で淡黄色、中心部は暗赤色、直径5~8センチ。朝開いて夕方に咲き終わる一日花で日本原産のハイビスカス。

 黄槿の舞ふ蝶よりも黄を淡く

 黄槿は一日花や淋しけれ

 黄槿の挿木が咲いて梅雨晴るる

 余生なほ黄槿二千本を挿す

 上記の句は、1917(大正6)年7月5日生まれ、松阪市三雲町在住の刀根幹太(本名=政郎)さん(98歳)がハマボウへの思いを詠んだ作品の一部だ。

 刀根さんは1937(昭和12)年12月、20歳の時に現役兵として朝鮮の竜山へ歩兵第78連隊に入隊、支那事変勃発に伴い翌年7月には中国各地を転戦。1941(昭和16)年4月に一旦満期除隊するが、1944(昭和19)年7月再度の召集により歩兵第51連隊に入隊しビルマを転戦、現地で終戦を迎えた。復員後、米農家を続け、三重県花植木振興会を設立し産業振興にも貢献した。2006年5月に「句集 黄槿」を出版する。

 刀根さんのハマボウへの思いは、1939(昭和14)年1月21日、中国江北の三余鎮の戦闘において至近距離からの弾丸を左前額部に受けたが、九死に一生を得たことから始まる。敵国兵士の打った弾丸は刀根さんの鉄帽を貫通し即死当然のはずが、鉄帽の内側に入れていた同神社のわずか2センチほどの陶製の「無事カエルお守り」が弾丸の貫通を食い止め、意識を失っただけで済み、お守りの願い通り、無事日本に帰ることができた。

 復員後刀根さんは、毎年1月21日に同神社への参拝を欠かさなかった。1987年ごろからハマボウの挿し木2000本、実生(みしょう)2000本の苗木を育て、県内はもとより全国の希望者に無償提供を始めた。その最初に育てた苗木を同神社へ奉納。さらに2000年からは5月5日に行われる同神社の大しめ縄張り替え神事に一般参拝者用ハマボウの苗木のプレゼントを始めた。

 最初に奉納したハマボウは同神社の参道に植えられ、直径15センチ以上の幹に成長し、毎年夏に黄色の花を咲かせている。

 刀根さんは「ハマボウは河口や海浜できれいな黄色の花を咲かせる。落花するとそのまま海へ流れる。2度目の出兵の際、台湾とフィリピンの間のバシー海峡で輸送船37隻の内31隻が撃沈、戦友3万人を目の前で亡くした。そこでも九死に一生を得た。ハマボウの花が海に落ち流れて、バシー海峡で戦死した戦友たちへの献花になればという思い」と慰霊と世界平和への祈りを込める。

 句集の中で刀根さんは「生き残り今年も仰ぐ弥生富士」と伊勢湾越しに松阪市から直線距離で200キロ以上離れた場所にある日本の象徴=霊峰富士を今年も見ることができたことへの感謝の気持ちと自分だけが見ることができる戦友たちへの後ろめたさ、3月の春の陽気を感じ平和な日本であることがいつまでも続いてほしいという願いを込めた句を載せている。

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